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ドミニカ共和国 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: ナビゲーション, 検索 ドミニカ共和国 Republica Dominicana Coat of arms of the Dominican Republic.svg (国旗) 国章 国の標語 : Dios, patria, libertad (スペイン語: 神、祖国、自由) 国歌 : 勇敢なるキスケージャよ 公用語 スペイン語 首都 サント・ドミンゴ 最大の都市 サント・ドミンゴ 元首 大統領 レオネル・フェルナンデス 首相 なし 面積 総計 48,730km2(127位) 水面積率 0.7% 人口 総計(2004年) 8,833,634人(85位) 人口密度 181人/km2 GDP(自国通貨表示) 合計(2005年) 8,590億ペソ GDP(MER) 合計(2005年) 214億ドル(78位) GDP(PPP) 合計(2003年) 521億6,000万ドル(67位) 1人当り 6,000ドル 独立 - 日付 ハイチより 1844年2月27日 通貨 ペソ(DOP) 時間帯 UTC -4(DST: なし) ccTLD DO 国際電話番号 1-809 ドミニカ共和国(ドミニカきょうわこく)は、西インド諸島の大アンティル諸島のイスパニョーラ島東部に位置する共和制国家。大アンティル諸島で二番目に大きな島であり、同島西部にあるハイチと国境を接する。モナ海峡を隔てて東にプエルト・リコが、西にキューバとジャマイカが存在する。首都はサント・ドミンゴ。 米州で最初にヨーロッパ人が恒久的に定住した土地であり、それゆえその後のスペインのアメリカ征服の根拠地となった。サント・ドミンゴは米州で最も早く建設された植民都市であり、それゆえ米州で初の大学、大聖堂、要塞が建設された。小アンティル諸島内のドミニカ島にあるドミニカ国 と区別するため、共和国をつけて呼ばれる。 目次 [非表示] 1 国名 2 歴史 2.1 先コロンブス期 2.2 スペイン植民地時代 2.3 ハイチの占領 2.4 再独立と再植民地化 2.5 独立国家として 2.6 アメリカ軍政期 2.7 トルヒーヨ時代 2.8 ボッシュ維新政権とドミニカ内戦 2.9 ドミニカ内戦以降 3 政治 4 地方行政区分 5 地理 5.1 河川と湖 5.2 気候 5.3 環境問題 6 軍事 7 経済 7.1 観光 8 国民 8.1 人口 8.2 言語 8.3 宗教 8.4 移民 8.5 日系移民 8.6 治安 9 文化 9.1 食文化 9.2 文学 9.3 音楽 9.4 世界遺産 10 スポーツ 11 脚注 12 参考文献 13 関連項目 14 外部リンク FX [編集] 国名 正式名称はスペイン語で、Republica Dominicana。 公式な英語表記は、Dominican Republic。 先物取引 日本語の表記は、ドミニカ共和国。漢字では土弥尼加共和国と表記される。 植民地時代はサント・ドミンゴと呼ばれており、スペイン人ハイチ共和国など様々な名前の変遷を経て、1844年のハイチからの独立後、1865年のスペインからの最終的な独立時に現在の名称に定まった。 外為・南アフリカランド [編集] 歴史 詳細はドミニカ共和国の歴史を参照 [編集] 先コロンブス期 紀元前4000年から1000年までの間に先住民アラワク族(タイノ人)が南アメリカ大陸のギアナ地方から移住してきた。タイノ人は島をアイティ(Haiti)、ボイオ(Bohio)、キスケージャ(Quesquiya)と呼び、島は五つのカシーケ(酋長)の指導する部族集団に分かれていた。ヨーロッパ人の征服によりアラワク族は消え去ったが、それでもドミニカの文化にはアラワク族の文化の影響が、特に食事、言語、家族構成、そしてモラルの中に見て取ることが出来る。なお、征服時にいたインディヘナの数は、イスパニョーラ島の全てを併せるとおよそ100万人から300万人程だろうと推測されている。 [編集] スペイン植民地時代 コロンのイスパニョーラ島上陸この島に1492年、クリストバル・コロンがヨーロッパ人として始めて上陸し、「小さなスペイン」(Hispanola)島と新たに名づけた。その後二度の植民失敗の後、1496年にコロンブスの弟バルトロメ・コロンによってサント・ドミンゴが建設され、「新大陸」初のスペイン植民地となった。 先住民は金鉱山で酷使され、疫病の流行もあってラス・カサス神父の告発も虚しくそのほとんどと言っていいほど死んでしまった。サトウキビのプランテーションがカナリア諸島から導入されると、多数の黒人奴隷をアフリカから連れてきて足りない労働力を補った。 FX 1526年からベネスエラ全土がサント・ドミンゴのアウディエンシアの管轄下に置かれていたが、1717年、1739年にヌエバ・グラナダ副王領が設立されるとベネスエラの行政権はまず副王領に、そして1777年以降はベネスエラ総督領に移管され、1786年にカラカスにアウディエンシアが設立されたことにより、司法権も完全に独立した。 その一方でイスパニョーラ島の統治は数世紀に渡って疎かにされ、その後イギリスのオリヴァー・クロムウェルの派遣した遠征軍による侵略の失敗などもある中、島西部が無人状態になったところに目を付けられてフランス人海賊が定住し、最終的に1697年のライスワイク平和条約により、イスパニョーラ島の西側は現ハイチのフランス領サン=ドマング、東側の3分の2がスペイン領サント・ドミンゴ、現在のドミニカ共和国となった。 [編集] ハイチの占領 トゥーサン・ルーヴェルチュールその後一世紀近くスペイン領内では停滞が続いていたが、サン=ドマングで起きていたハイチ革命の波及や、フランス革命戦争最中の1795年にバーゼルの和約が結ばれた結果、イスパニョーラ島全島がフランス領(=サン・ドマング領)となるが、幾度かの変遷を経て1801年にサン・ドマングの軍人トゥーサン・ルーヴェルチュールの攻撃により最終的に占領され、黒人奴隷が解放された。トゥーサンはイスパニョーラ総督として島を統治するつもりでいたが、ナポレオン軍の侵攻により、トゥーサンが捕らえられ、獄死すると、ハイチ革命の指導者は1804年にフランス軍を破ってハイチと改名し、サン=ドマングと共にサント・ドミンゴもハイチの一部として独立した(ハイチはアラワク族の言葉で山がちな土地を意味する)。 しかし、1809年にサント・ドミンゴは再びスペインの支配下に戻り、その後の1814年、パリ条約で再び東側は正式にスペイン領となるが、折からシモン・ボリーバルやホセ・デ・サン=マルティン、ホセ・アルティーガスらによってラテンアメリカで進められていた解放戦争の中で、サント・ドミンゴのクリオージョにも独立の気運が高まり、1821年11月30日にスペイン人ハイチ共和国として独立した。この政権はシモン・ボリーバルの指導するコロンビア共和国への加入を求めたが、王党派と独立派での間で内戦になり、その隙を突かれて1822年1月には再び隣国ハイチのジャン・ピエール・ボワイエに占領された。 [編集] 再独立と再植民地化 トラブカソを指導するラモン・マティアス・メーリャ? しかし、ボワイエの独裁とハイチの植民地支配に反発する勢力は次第に大きくなっていき、ボワイエが失脚した後の1844年2月27日、フアン・パブロ・ドゥアルテ、ラモン・メーリャ、フランシスコ・デル・ロサリオ・サンチェスに率いられた革命軍がハイチ人を一掃し、翌1845年ハイチより独立してドミニカ共和国となり、ペドロ・サンタナ将軍が初代大統領に就任した。 しかし、相次ぐハイチとの戦争に耐えられなくなると、保守派の利害を代表したサンタナは1861年に再度スペインに併合を申し入れ、自身はサント・ドミンゴ総督に就任した。しかし、この屈辱的な措置はドミニカ国民を激怒させ、ハイチ人と結んだドミニカ人自由派がスペイン人に対する独立戦争を激化させ、結局1865年に独立を再び果たした。しかしハイチの脅威は大きく今度は二度に渡ってアメリカ合衆国への併合を求め、グラント合衆国大統領も乗り気だったものの、合衆国上院に拒否された(この事情は中米連邦崩壊直後のエル・サルバドルや同時期のキューバとも似ている)。1875年にようやくハイチとの平和条約が結ばれ、独立国家としての道を歩むことになった。 [編集] 独立国家として 黒人独裁者ウリセス・ウーロー1882年から黒人のウリセス・ウーロー大統領が独裁を開始した。黒人という立場でありながらも、白人寡頭支配層の反目を突いて大統領になったウーローは、しかし大統領としては拙劣な政策を積み重ね、政権末期の外債はとても一国では支払えない程の膨大なものとなっていた。ウーローは1899年に暗殺され、以降しばらく混乱状態が続いた。 [編集] アメリカ軍政期 アメリカ海兵隊の上陸(1916年)1906年にドミニカ共和国は、ウーロー大統領後の混乱収拾と列強に対する債務返済のため、アメリカ合衆国が50年にわたりドミニカ共和国の関税徴収を行う代わりに債務返済の保証をするという提案を受け入れ、事実上の保護国となった。この時期ハイチも対仏賠償や各国への債務が返せず財政難と混乱が続いた。第一次世界大戦時、両国の内政混乱に付け込み列強(特にドイツ帝国)が手を伸ばすのを避けるため、アメリカ軍は1915年にはハイチに、1916年にはドミニカ共和国に出兵して両国を占領した。両国は米軍支配下で債務を返済し、経済基盤や政治を改善し大規模農業を導入し、有力者(カウディージョ)の私兵や軍閥に代えて強力で統一された警察や国軍を作るが、これが後に両国の軍部独裁の種となる。1924年の選挙でオラシオ・バラスケスが大統領に選出され、同年7月にアメリカ軍は撤退した。 [編集] トルヒーヨ時代 1930年2月にクーデターを起こしたラファエル・トルヒーヨ将軍は、同時期のラテンアメリカでも最も完成された独裁統治を敷いたトルヒーヨは富を独占し、個人崇拝を徹底させ、首都名も1930年のハリケーンからの復興時にサント・ドミンゴで迅速な救助を行ったトルヒーヨを称えて、サント・ドミンゴからトルヒーヨ市(シウダー・トルヒーヨ)に改名され、国内最高峰の山もトルヒーヨ山と改められた。